合理的配慮とは、支援とは

こんにちは。川下です。

 

https://news.yahoo.co.jp/articles/490b3720dcd06b17f8e99f0c029edfadae7b1f8d

 

ネット記事にありました。アイデアが素晴らしいと感じました。

真似してやってみようかな、とも。

 

実際、すたでぃあで使っているプリント類も本人が見やすいように、書きやすいように配慮をしています。枠や下線などを置くなどです。

 

さて、合理的配慮、支援とは何なのか改めて考えてみたいと思います。

 

実際、合理的配慮、と言われても、具体例として何なのか、どこまでが支援なのか、ということに現場レベルではなるのが現実だと思います。

また私自身、自戒を込めて書くのですが、支援をやっている本人が、いつの間にか、目の前の事象にまるめこまれてしまい、よかれと思っていたことが全く真逆の結果になっている、というパラドックスが多々あるのが現実だと思います。ここではより、リアルに「実際」の自分自身の感覚も踏まえて書きたいと思います。

 

車いすの人にスロープを用意する。そうすると、上の段に行くことができる。これはれっきとした合理的配慮でしょう。これについては誰も何も言えないのではないでしょうか。足が使えない人に対して、階段を登れ、というのは無理強いを行っている、と思うはずです。

これはその障害、困難事体が目に見えて明らかであるからこそ、そうすることが合理的である、と判断できるからです。

 

しかしこれが発達障害、認知に特性のある子であればどうでしょうか。いわゆる発達障害とは脳の特性です。脳の特性と言っても頭を開いて確認することはできません。またその特性が如実に目に見えたとしても、頑張らせればやれる、言葉かけをすればできる、というような、実際問題は、できるではないか、という判断をしてしまうのが常です。できない、って言っても、あの時はできたし、ゲームをしている時には集中しているし・・・

そして大人が放つ最も危険なワードがあります。

 

「やる気がない」

 

目に見えない困難であるからこそ、「やる気がない」これに終始してしまうのです。これはある意味、大人の思考停止にもつながりかねません。ただ、子どもなので、勉強にやる気が持てる子はそうそういないのも確かです。だからこそ、余計にこの判断が難しくなるのでしょう。

つい、言ってしまうこの言葉。実はこの一言が「やる気がなくなる」きっかけなのです。

 

では、どんな配慮、支援が必要なのか、ということなのですが、ここでも一つの罠が潜んでいます。

漢字が書けない子がいます。そうか、これ以上無理強いをさせる必要はない、この子は漢字の宿題はなし。なかなか勉強がついていけない、この子は宿題の量を減らそう、やりたいことだけをさせよう、ここに大きな思考の罠があります。

 

できない=させない

 

つまり、そのイライラやストレスを排除しようという気持ちになるのです。当然、目の前で子どもが困っているのですから、その学習の量自体を減らせれば具体的に目に見える形で配慮をしている、支援をしている、という気持ちになるのです。

ところが、実際、このやり方というのは、単純に本人の学ぶ機会を減らす、ということをしているだけなのです。

 

じゃあ、どうすればいいのか、ということなるかと思います。それは、「質」を変える、「環境」を変える、それに尽きるでしょう。

漢字が書けない子であれば、その子に合わせた形の教材で、宿題を出す必要があるでしょうし、その宿題のノートやプリントはその子の特性に合わせた形でなければいけません。教室環境は、不要な刺激がないような場所でなければいけません。そういったことが具体的な合理的配慮、支援になるのだと思います。

 

さて、私はもう一歩この先に踏み込んでみたいと思います(もう少しお付き合いを・・・)

そういった、配慮、支援をしたとして、その子の学力は伸びるのか、ということです。これこそが最も誰も答えが出せない、難しい問題だと思います。例えば、中学校の数学のテストがあります。小学校のカラーテストのように単元ごとのテストではないので広範囲となります。もちろん公立の場合はあらゆる子が来る子を想定し、問題を先生達が作られます。そんな中、例えば認知に特性のある子が平均点ほどの点数をとることができるのか・・・

 

私は非常に難しいと思います。一応、補足しておきますが、「認知に特性」とやや広い範囲で表現したのは、もちろんその特性によっては高得点をとれる子もいるからです。ただ、一定の特性を持つ子がこのテストに向き合えるのか、というのは甚だ疑問です。

イメージとしてはすごく高いハードルを設定され、飛べ、と言われているようなものなのです。かといって、テストですから、そのテスト自体の難易度を低くすれば満点が続出してしまう、テストとしては意味のないものになるでしょう。つまり今の学校現場における子どもへの評価ができないのです。

 

そしてもう一つ。配慮、支援を行うことは労力が伴います。例えば、プリントもコピーをすれば簡単に人数分揃えられます。ところがこの子はこういう認知特性があるから、この教材で、と思えばその一人分の時間がとられるわけです。実際学校の先生も人間です。全ての子に適切な指導ができるわけではありません。こういったところはそもそもの日本の学校現場の文化の土壌があるのかもしれませんが。また、このような配慮をしたところで、それ相当の結果が出るとも限りません。

 

すごく簡単に言うと、発達障害、認知に特性のある子への支援は見えにくいし、考えにくい、よって労力もかかる、結果として大人の方がそれに向き合えないという現実があると私は思います。

 

そういった現実があるとして、どうしていくのか、それを考えていくしかありません。また大人も大きな子どもの環境の一つなのです。

自分を変えることは本当に大変な作業です。私自身のこういった想いがスタッフはもちろん、保護者の方々、学校の先生にも届くといいな、と思っております。