レキシコンとは、心の中の辞書、心内辞書。これを形成していくことにより、漢字を書くこと・読むこと(アウトプット)ができるようになります。しかしながら、発達の特性によりこのレキシコン形成が困難な子もおり、漢字が書けない状況に陥るのです。
昨日、授業をしていて、漢字の書字に苦手がある生徒が小6の漢字「並」「降」「認」を全て想起し書けることがありました。本人も書けた自分に興奮しており、達成感があったようでした。ここ1か月ほど練習をしてましたが、以下のプロセスを辿りました。
①自分が書けそうだ、と思える漢字をピックアップする。
②絵が好きな子(かなりセンスがありました)だったので、漢字をよりポップに、イラスト化してもらう。
例えば、「降」は右半分が傘のイラストと同化していました。
③カラーマスのプリントで練習をする。
このようなプロセスを辿りましたが、本人のレキシコンが形成されていったということなのだと感じます。
我々は漢字を覚える際、線と線のつながりを意識し、それを何回も練習することで運動感覚的に覚えることができます。
しかしながら、この方略の場合、特性のある子は単なる、線をひたすらに書く作業にしかなりません。レキシコンの形成にならないのです。
今回、本人が好きなイラストを使って、その漢字を覚えてもらいました。またそのイラストは本当に自由に描いてもらいました。
パーツとしての形を把握、音韻からというわけでなく、本人がまず描いたイラストがベースにあってそこに漢字が当てはまるという形になったのだと考えれます。
つまり、漢字ありき、というわけでもなく、最初にイラストありき、というものであれば記憶に残すことも不可能ではない、ということなのです。本人なりに象形文字を書いた、ということかもしれません。
この子にとっての意味、とは「自分で描いたイラスト」であったのではないか、と思います。そのような形での意味がレキシコンとして形成された、言えるのかもしれません。
また、今このように書けるようになったのは、これまでの生活経験の中で無意識的にたくさんの漢字(今回書いた漢字も含め)に触れる機会も作用したと思われます。授業でも頻繁に部首の確認をしました。
漢字が苦手な子の場合、生活の中で一定の漢字の情報に触れることにより、知らず知らずの間に漢字のレキシコンが形成され、今回学んだ漢字とのつながりができ、結果として、漢字を頭の中から取り出しやすい状況が作られていた可能性もあります。
このようなことを踏まえると、ある程度、生活経験を積んだ後の方が、漢字が書きやすくなるような気もします。
私が常日頃から思うのは、そういう観点で行けば、今の学校での漢字の習得順は、覚えやすさから言えばかなり無理があるように思います。
まずは見慣れた漢字、かつ今ある漢字のレキシコンの状況に応じた漢字ではないかと思えるのです。
その子なりの学習方法を探る、学びを創る
stadia-educationです。
コメントをお書きください