質よりも量なのか?量よりも質なのか?
良い質でたくさんの量、これが最もよい方法です。
私立大学のトップ校に合格するためには1年で約1200時間を受験勉強が必要、という話があります。
つまり、どんなに質の良い勉強法であったとしても、単純に1時間では足りないのです。
発達障害の子、グレーゾーンの子、特性を持った子への学習方法は巷に溢れています。
様々な方法があり、最近は本当にバリエーションも多いです。
ですが、ここで大事なのは、学習方法(質)を変えたとしても量は一定程度必要である、ということです。
特性によって学びにくさがあるゆえ、なかなか学習に向き合えず、勉強時間が少なくなる、という現実があると思います。
ですが、ポイントは特性に合わせた学習方法を使って、「たくさん」勉強をしなければ、意味がない、ということです。
その子にあった学習方法に変えたとしても量を減らす、ということでは当然、定着は弱くなります。
例えば漢字。多くの小学生は毎日ノートにたくさん漢字を書きます。私も小学校時代は漢字1ページ、という宿題が毎日のように出ました。
ですが、書字に困難がある子の場合、これは単に苦行になってしまいます。ですので、漢字を書く、という学習方法ではなく、読みを重点的に行うとか、パーツごとに唱えながら書いてみるなどの方法があります。
ですが!ここで大切なことは、それを漢字1ページ書くのと同等なくらいに取り組むことが重要なのです。
方法を変えたからと言って、量を減らしていいことにはならないのです。
ここの辺りのことで、トム・クルーズの有名な話があります。トム・クルーズの映画は私もたくさん観ました。彼が読字障害であることは有名です。台本が読めないのです。これは俳優としては致命傷です。では彼はどうしたか?
台本を母親などにテープに吹き込んでもらい、それを聞いたのです。読むのが難しいので、聞く方を選んだのです。
さて、トム・クルーズは台本を聞くことを1回、2回で終えたでしょうか?違うと思います。きっと読める人と同等、それ以上に聞いたでしょう。
つまり、質も変えつつ、量も十分に確保したはずなのです。
このトム・クルーズの例で言えば、台本を聞く、というある意味、合理的配慮はなされているのです。ですが、きっとそこに彼は甘んじずに努力を重ねたのだと思います。
私も塾の生徒にはこの努力の部分を怠らないでほしいと願っています。
パソコンで学習するのも良いです。映像で学習するのも良いでしょう。ですが、学習時間が減ってしまっては当然、頭の中に残るものも少なくなります。
ただし、別の道として、特性上、どうしても理解や問題を解くことが難しいこともあります。それは「諦める」という判断をすることも必要です。
要は自分には何ができて、何ができないのか、そこを明確にし、できることにはしっかりと向きあってほしい、ということです。
(ここがあべこべになってしまい、できないことに労力をかけ、できることを漫然としてしまっていることは往々にしてあります。結果として、学習自体に無気力になってしまうのです。)
何かの力を伸ばしたければそこには量が必要です。ゲームをすればそれだけゲームは上手くなります。
もし、学習の力を伸ばしたければ、その「自分に合った方法」を見つけて、「たくさん」学習をすることなのです。
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