最近は、ニュースを見て、色々なことを考える。
いつからこんなに世知辛い世の中になったのか。ただ昔を懐かしむ、ということではないと思う。私の小さな頃はもっと世の中が今よりも多様だったと思う。
皆、あまりにも幸せになりたいと思いすぎている。
幸せそうな写真をSNSにアップする、いいねを押してもらう。そこで、自分は幸せなんだ、と実感する。
これは本末転倒ではないか。生きているだけで幸せ、身近な幸せを探そう、そんなセリフは聞き飽きた。それだって、幸せを得ようとすることに違いはない。
そんなに幸せにならなければならないのか。もっと言えば、その追い求めている幸せは何か。
それはその人それぞれが決めること。そういう話も、自分が不幸だ、と感じている人にとっては何の救いにもならない。
世の中には事象がある。その事象に対して、反応し、喜びや悲しみを経験する。ずっと嬉しいことばかりの人がいるだろうか。そんな人はいない。辛いことはいけないことか、悔しいことはいけないことか、苦しいことはいけないことか、できないことはいけないことか、醜いことはいけないことか。
いつの間にか、世間の中によくわからない価値判断が蔓延しているように感じる。
いつからこれはこういうものだ、幸せはこういう形だ、これは良い、これは良くない、こういう人が理想、こういう家族が理想、こういう人生が理想、それを目標に生きる、そんな妙なプレッシャーをそれぞれが感じるようになったのか。いつから不快なもの、愚かなもの、醜いものを忌み嫌うようになったのか。潔癖症になっているような気がする。人間はそんな理想的な生き物か。
生と死は隣りあわせである。人はいつか死ぬ。生きることが辛い人にとって、生きることは素晴らしい、生きることは正しい、と述べることは簡単である。しかし、それは同時にその死にたくなるような気持ちの否定に他ならない。
なぜそこまで追い詰められてしまうのか、誰が追い詰めたのか、生きることを否定したいという感情はあってはいけないのか。
誤解が無いように言っておくが、生きることを否定するつもりではない。生きることは大切なことだ。
では何か大切なのか。
生きていること、それそのものである。
朝起きて、日中は何かをし、そこで色んな感情が発生し、良い日だった、悪い日だった、つまらない日だった、何も感じない日だった、そしてその日が終わって眠る。それそのものに価値がある。良い悪いではない、価値がある、それだけだ。
何かを達成する、何かを得る、楽しいこと、快の感情を得ること、悪いことではない。ただ、それは同時に挫折、喪失、辛さ、不快、そういった感情とも隣りあわせなのである。価値を与えるのは自分自身のエゴである。
人生は価値判断を与えるものではない。その生きている、というその事実そのものに価値がある。そして生きることは、味わうことである。
そう思う。
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