教育について最近考えたこと③

現代社会は生きづらい。なぜなら、その人自身を見る、見られたという経験があまりにも少なすぎて、自分というものが確立できていないからだと考える。

 

「自分探し」という言葉が巷で見られるのは、まさにこの状況を表していると言える。「自分」というものは人間は誰しも持っている。それがわからない、ということは、自分という人間を考えてこなかった、考えられてこなかった結果であろう。

 

もう一度考えたい。教育の目的は、人格の完成を目指す、ということを。

 

能力を開発することではない。人格、その人らしさを最大限に伸ばすこと、発揮することなのだ。国の指針である教育基本法の言葉を根拠とするわけではなく、本質的にもそこにいきつくはずである。

 

人格を形成する上で、確立しなければならないことは、自己の自由な意志(自由意志)であると考える(ここでは人間に自由意志があるという立場をとる)。

この自由とは、フリー(Free)ではなく、リバティ(Liberty)、制限のない自由でなく、自ら能動的に考え、つかみ取ることができる自由である。すなわち、その人間自身の中にしかない、どの方向性に進みたいのか考え、想う、積極的な志向性である。

 

意志と対をなすものとして考えられるのは欲である。この両者は混在されることが多く、判別がつきにくいものである。結果として、意志と欲がないまぜになっている事例は世の中に多く見られる。人間に弱さがあることは当然である。しかし、それをも含んだ上での純粋な意志を持てるかということまで観念を広げてみる。そこまでの人間観に到達するのは甚だ困難ではあるが、ある種の理想形として捉え、考えても良いだろう。また、弱さ、不完全さがあるからこそ、どう生きるか、という意志を持ち続けることにもつながる。

 

このようにして考えていく中で、個々人の自由意志を涵養させていくことこそ、教育の本質でなければならないだろう。

 

能力はその人間性を発揮するための道具でしかない。最も根幹にあるのはその人間がどうしたいのか、どうありたいのか、自己存在自体への問いなのである。また同時に、その問いが生きることへの主体性につながるには、人間存在という次元における肯定が必要不可欠である。

 

翻って、現在の教育現場に目を向けてみる。毎日多くの教育現場でのニュースが飛び交っている。子ども達は人格を形成されているのだろうか。自身の人間性を大きく発揮させる準備を整えているだろうか。

塾であっても一教育者として私自身、自分の在り方、指導の方法、教育的な価値観、揺さぶられることが多くある。

 

本当に子どものためになることは何か。何のためにそれを行うのか。もちろん、簡単ではない、その人らしさ、人間性などという言葉でしか表現できず、安易な決まり文句で片付けることもでき、見えもしないものをどう扱えばいいのか。わからないからこそ、見た目の良さや新しい知見・言葉は私達の不安を払拭し、答えを与えてくれるような気にもさせる。だが、本当にそうか。そんなことで解決するのであれば先進国で物質的にも恵まれている日本でなぜこれだけ悩める人が多いのか。

 

答えは簡単には見つからない。むしろ簡単に出すべきものでもない。

 

だから、問い続ける。教育とは何なのか、と。