その人らしく生きることができない→自分という人間を信じていない=自信がない。という構図になる。
では、その人らしさを妨げるものは何か、一言で言えば「否定」だろう。
肯定されるということは存在を保障される、という意味だ。身体的、生理的な保障とは違う次元でのことである。
肯定は難しい。否定は簡単である。
学齢期の子ども達のことを考えていく。なぜ多くの子は自信をなくしていくのか。それは自分というものに対する否定から生じる。そしてその情緒的な反応は学校の成績というものが少なからず影響を及ぼしているだろう。ここで言う、学校の成績というのは、友人関係や教師との関係、学校での係活動の役割など全てが含められていると言える。つまり通知表に反映される内容、特に目がいきやすい5段階評価(当然テストの点数も含まれる)のことである。
教育の現場は評価が付きまとう。あらゆる場面で。
例えば、問題を答えるように言われ、何の疑いもなくその子なりに違う答えを言ったとする。それは違う、と言われる。ここで多くの子は、自分というものを発揮しようとしたが、それが妨げられた、と感じると思われる。自分への否定と解釈してしまう。ある意味、誤解してしまうのだ。学校の成績、能力などは人間像の一部、枝葉の部分でしかないのにも関わらずである。
学校の成績の優劣に一喜一憂する。それが自分という人間を認められたか否かの評価基準と考えてしまうからである。
この何ともいびつな人間をどう捉えるかという視点のねじれによって多くの人が悩むのだと思う。
能力に一定の水準を設けたとして、そこに到達する者、しない者があるのは当然である。その水準まで至っていない、というある意味での否定は免れることができないものである。
だが、ここでもう一度確認したい。その人らしさ、人格、というものは否定のしようがない。その人間の本質的な部分だからである。だから、能力の評価をされたとして、自信を失う、人間性を発揮できない、ということにはならないはずである。また周りもその人間の人間性、人格までは否定できないのである。これは大人社会においても同様である。
断っておくが、私は、みんな違ってみんないい、と言ったような耳当たりのいい言葉でまとめることや、手を繋いで徒競走をゴールするという考えに同意するわけではない。肝要なのは視点である。
子どもにとっての社会的な環境である学校で、自身の人間性の発揮が妨げられた、そんな経験が積み重なれば自分の中からしか湧き出てこない純粋な「意志」というものが次第に薄れていくはずである。
なぜなら、自分の意志を認められない、という経験を積んでいくのだから、当然何の疑いもなく出そうとした自分の意志は内に込め、何を出せばいいのかがわからない。ある意味賢い子はここで自分の意志に反して違った行動をとることにより、その状況を打開しようとする。だが、本質的な部分では自分に嘘をついていることになる。
つまり、「生きづらい」という状況が生まれる。
つづく・・・
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